2021/09/30 22:20


マルセル・デュシャンという人の名前は、一部の人にしか聴き馴染みのない名前だと思いますが、1887年生・1968年没のフランス生まれの芸術家です。

彼はチェスの名手としても知られ、後年は芸術家としての制作活動はせず、チェスプレイヤーとして活躍していました。つまるところ、非常に物事を理論的に考える事のできる人で、美術を言語ゲーム化させた事から現代美術の父と呼ばれるようになりました。

そしてファッションの世界では、デュシャンはヴァージル・アブローやデムナ・ヴァザリアが考え方に影響を受けた人物という形で、しばしばその名前を耳にする事があります。今回は、デムナがデュシャンから影響を受けたという事を考えると、バレンシアガのロゴキャップの見方が変わるかも、という話です。




デュシャンの作品で、最も知られるのは『泉』という作品です。量産品の便器にサインを入れたもので、デュシャンはこれを芸術作品として展示しました。



他にもデパートで購入した、当時パリの一般家庭にならどこにでもあるような瓶の乾燥機も作品として展示しています。



デュシャンのこういった作品は、芸術を実践することと、芸術を判断することの区別を無くし、判断命名行為にまで還元してしまうという方法論のもと作られたものです。それまで芸術作品は、絵を描いたり、彫像を掘ったりと作品を作る行為=実践がありました。そのパートを限りなくゼロにするために、既に完成していて、何処にでもある量産品を持ち出したわけです。これらは「レディメイド(既製品)」と名付けられました。

デュシャンが選びタイトルをつけたものは芸術作品ですが、この瓶の乾燥機自体はどの家庭にもある何の変哲もない退屈な代物で、現に最初にデュシャンが展示した乾燥機は、引越しの際にゴミと一緒に捨てられて紛失したという逸話が残っています。


物それ自体には価値が無く、その外側にある言葉(コンセプト)や展示環境によって作品の価値が生まれます。そのため、デュシャンは芸術を言語ゲーム化させたと言われるわけです。

当然これには批判もありました。だって瓶の乾燥機は瓶の乾燥機だし、便器は便器なんです。物自体は量産品で、美醜の差もありません。デュシャンは人がその物を見ても無関心である事を、レディメイドの条件としていたので尚更です。乾燥機は芸術作品ではないから、新しい芸術概念の物質的な依代になれたのであって、結局「それが芸術作品に見えない」という否定性を孕んでしまいます。乾燥機が芸術作品に見えるには、タイトルと展示台、美術館やギャラリーという場所の権威と言葉が必要でした。

しかし、手工芸の時代から大量生産の時代へと移り変わった社会を代表するように、既製品を作品として展示し、コンセプトを聞くことで何の変哲もない物が頭の中で芸術に昇華される、という現象自体にはとてもインパクトがあり、それを理解し楽しめる事は知的な教養がある証明となりました。この知的ゲームを楽しみ、それにお金を払える人達というサークルを生み出した事も、現代美術の重要なターニングポイントです。


さて、前置きが長くなりましたがここからようやくヴァージルやデムナが出てきます。


ヴァージル・アブローがナイキとコラボしたTHE TENのシリーズは、ヴァージルがナイキから依頼を受けた時に、定番のスニーカーは既に完成された物で、付け加える事は何も無いと思ったという話が有名です。蛍光色のタグとテキストプリントを付けるだけ。デュシャンの考え方に基づくなら、これはデザインをしたのではなく、デザインを放棄した、と考える事ができます。

もちろん全く何もしないというわけにはいきませんから、半透明のパーツを使ったり、ディテールやカラーリングを変えたモデルもありますが、それらは定番のスニーカーのカラーや素材のバリエーションに過ぎません。2017年に初めにリリースされた10モデルのうち、エアジョーダン1のデザインをオリジナルと見比べると、ヴァージルのデザインのポイントがよく分かります。






大きくなったスウォッシュマーク、AIRの文字のプリント、赤いタグ、これら目立つ差異は全てエアジョーダン1のデザインの中で、「記号」的な要素です。ヴァージルが赤いタグをつけた事は、デュシャンが瓶の乾燥機にタイトルを付けた事と重ねられます。

(ただ、THE TENはナイキの定番のスニーカーという、既に完成されていて多くの人が好意を抱くデザインをベースにしているということにおいて、デュシャンの言うレディメイドの条件に厳密には当てはまっていません。)

最も目立つ赤いタグは、ブランドの紙タグの可視性と耐久性を上げたもので、これはスニーカーのデザインではないです。絵とキャプションの関係性に近く、THE TENの本質は定番のスニーカーをそのまま使うという判断と、その外側をデザインする事にあります。



デムナの場合は、バレンシアガのロゴキャップから考えてみます。ストリートカルチャーが氾濫する中で、大人気だったあのキャップ。ファッションに興味がない層でも被っている姿をよく見かけました。

まさにレディメイドの概念に当てはまる、なんの変哲もないキャップをベースに、シンプルな書体のロゴを載せただけ。これもデザインをする事を放棄したデザイン、と考えられるアイテムです。


しかもそれを出したのは、プレタポルテを自分の領分とせずクチュールにこだわった創始者を持つ歴史あるブランドでした。クリストバル・バレンシアガは、シャネルやディオールが真のクチュリエと呼んでいた人物で、彼と比較してシャネルはスタイリングが上手いだけという悪口があるほど。実際、シャネルは新しい人物像を生み出すという意味で、本当にスタイリングが上手かったのですが。

話を戻すと、バレンシアガはその歴史において、クチュールという職人による手工芸=制作行為に重きを置いてきたブランドです。前置きで書いた通り、デュシャンの方法論はその制作行為を限りなくゼロに近づけるものだったので、バレンシアガにそれを持ち込む事には他のブランドがやるよりもずっと意味があります。


また、ルイヴィトンのモノグラムや、グッチの緑と赤のシェリーラインのように、その記号のデザイン自体に固有性があり、ブランドを象徴する要素になっているものは、アイテムにそのブランドの歴史やイメージによって作られた価値を纏わせてくれますし、何よりそのデザインが素晴らしい。そして商品自体のクオリティも高く、素材も高級です。

しかしBALENCIAGAのロゴキャップは、商品のクオリティも素材も一般的なもので、バレンシアガの歴史と接続する要素が含まれていません。昔ながらのロゴではなく、ネット上で印象に残りやすい現代的なシンプルなフォントのロゴです。デムナは本当に人が無関心であるデザインを目指したのです。そして、好き嫌いのどちらも感じないデザインだからこそ、あれだけ多くの人が被っていたし、どんなスタイリングにも取り入れる事ができたのだと思います。


後にバレンシアガのコピー品が出回った際に、そのコピー品を買い取りタグを付け直して本物として販売するといったパフォーマンスを行えたのも、もともとバレンシアガのコピーしやすい商品は、その物自体に価値がないからです。

それは何が本物で何が偽物かという素朴な問いかけではなく、価値のゲームが可能にした一幕です。


だから、バレンシアガのロゴキャップに対して原価が低い、素材が悪いのに高いといった批判は的外れで、価値の発生のしかたが違うゲームを仕掛けているんだという事を理解し、するならその仕組みから批判しなければ意味がありません。

でも、それを理解して見てる人は、バレンシアガはロゴの目立たないアイテムでとても良いものづくりをしているし、バレンシアガの歴史の中にある名作を踏襲した服を作っているのにも気付くはず。


デュシャンにはその後、制作行為を放棄したことに対する批判が起きましたが、バレンシアガはちゃんと服を作っています。一つのブランドの中で違うゲームを行っているのもまたファッション業界ならではの面白さです。

ちなみにデュシャンはあるタイミングから作品の発表を辞めチェスに興じるようになりましたが、少し前に出た研究本で、デュシャンの理想の芸術作品はチェスをプレイしている時に、2人のプレイヤーの頭の中で起きる運動にこそあった。という主張も出てきてます。デュシャンもまた、今回語った事だけで理解し切れる人ではないわけで。

今回はあくまでロゴキャップについて、レディメイドという補助線を引いただけです。デムナのデザインを楽しむなら、言葉だけでなく実物や現象を見てください。あとyou tubeで見れるキャンペーン映像もとてもよく練られています。



最後に、デムナのインタビューの中で印象に残っているデムナの言葉を紹介しておきます。

「ジョージアで生活している時、歯磨き剤をコルゲートなどというブランド名で呼ぶ人なんていなかった。1種類しかなかったから。」