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2021/01/24 19:10

今回は考えている最中のこと。


ここまで書いてた内容で、結構優先して身体の話をしてきましたが、現代人における身体の意味やあり方って随分と複雑になっていると感じます。


そもそも、自分の身体ってどういう風に認識するものでしょうか。

僕たちは自分の身体全体を直接その目で見ることができません。普段は鏡を通して、自分の身体というもの見てます。

そしてスマホが普及した今、写真や映像もまた、自分の身体全体を映すものとしてとても身近になりました。


しかし、鏡とスマホのカメラには決定的な違いがあります。


鏡は、自分の身体の比率がなるべく実物と変わらないものが「良い鏡」で、歪むものは「悪い鏡」という意識をみんな持ってると思います。

それに対してスマホのカメラは、色彩や陰影が調整されて見栄えの良いものに自動で変換するのが基本です。なのでほとんどの場合「人間の目」が実空間を見ているのとは異なる像がそこには映っており、それをスマホは「良い写真」だと考えています。そしてそれがデフォルトになった今、現実通りの写真がスマホの画面に出てくると、人はそれを写りの「悪い写真」と感じると思います。

ここで重要なのは、「実物通りの自分の画像」に対する評価がメディアの違いによって分かれるという事です。


スマホがどの様に認知を傾向づけるかもう少し掘り下げてみます。


意外と知られていない話ですが、スマホのカメラは一回のシャッターボタンのタップの間に、複数枚の写真を撮り、それらを合成して1枚の画像を作っています。なので、スマホの写真は既に単なる静止画ではありません。

また、最近の研究で、写真に写った自分の笑顔の良し悪しを判断するテストで、3・2・1・ピース、という掛け声のもと、その前後も含めて何枚か写真を撮ると、「ピース」の後の、写真が撮り終わったと思って緊張が解けた顔が人は良い表情と判断する事が多いから、わざとシャッター音とズラして写真を撮っていたり。


スマホのカメラは、人間が見て綺麗だと感じるように様々な手段で画像を加工する「変換器」の役割を常に果たしています。人間はこの2・30年で、人がどういった図像を綺麗に感じるか、膨大なデータの蓄積のもと機械的に判断する幾つもの基準を作りました。それに合わせて加工されたものがデフォルトという事は、そこに映っている自分もまた既に加工されたものである訳です。

多くの人が美しく感じる様加工された自分を見て、これが美しいのだという意識が強化されていくループが生まれる。こうした構造をスマホのカメラは産んでいるわけです。


さらにはスマホには写真を特定の雰囲気に寄せるフィルターがあたり前のように実装されています。

少し身体の話からはズレますが、料理を撮るならこれ、人物を撮るならこれという風に、対象に合わせたフィルターがあり、それを使う事で特定の雰囲気のある写真が大量生産される。現在のカメラの進化は、自分のオリジナルの写真を撮ることを容易にするのでなく、既にあるマジョリティが好ましく感じる写真を容易に生産する方向へ進んでいます。

それによって、多様性はむしろ減っているのが現状です。

スマホを通じて自分の身体を見るという事は、常にこうした「毒」を孕んでいるわけです。



また、写真加工アプリの中には画像の中の身体の輪郭や顔のパーツを認識し、それぞれのサイズを操作する事までできます。

画像上の肉体を加工する作業は、何もその写真の中の自分を美化するだけでなく、同時に自分の身体や顔のパーツがどの様に変形すればより自分が美しくなるかというシミュレーションを兼ねているのです。


スマホというメディアは、それらの操作を容易にしたインターフェースであり、この小さな窓を通して世界を見ている事は僕たち自身を大きく変えています。

そうした体験の積み重ねで僕たちの認識がどう変わっていくか、今はその過程にあると思います。自分の身体の輪郭が、なにもいまここにあるものに固定されたものでなく、「変形・加工が出来るもの」というイメージが強くなることは、直接的な話で言えば整形に対する精神的なハードルを下げたり、筋トレなどによって自分の身体を能動的に変形させる姿勢に繋がるもしれません。

自分の身体を対象化して、自分と離れた単なる「もの」としての認識が強まる効果はありそうです。




ところで、これを読んでいる皆さんはゲームをするでしょうか?僕は最近はスマホで暇つぶし程度にゲームをするくらいですが、子供の頃や学生の頃はよくやっていました。

現代の身体のあり方というテーマであれば、デジタル空間上の身体の話は自然と出てきますね。

それでいうと、ゲームが最も進化している例だと思うのでそれについて話します。

また、スマホと同じ様に、ゲームというメディアを通じて世界を認知する事についても並行して考えながら書いてみたい。


最近のゲームは、かなり自由度の高いキャラクターメイキングが可能なものが多いです。先程の身体の形を加工するアプリを操作する感覚は、キャラクターメイキングと似ています。

特に欧米のゲームはハリウッド文化と早くから結びついていたこともあり、実際の役者の演技をスキャンして取り込みゲームの中で再現しています。

自分の身体をスキャンしたり、顔の写真を元にキャラクターの身体を作り、それがゲームのムービーの中に登場する時代も目の前です。


最近のルックでは、そうした技術を使い洋服を着たモデルをスキャンして360度回転させる事であらゆる角度から見ることのできるデジタルプレゼンテーション形式のものが見られます。

視点を固定したカメラを複数配置するのではなく、デジダル上の空間にモデルや服を再現するシミュレーションなのでそこには映像や写真と大きな差があります。

通常のルックでは、それを撮影したカメラマンの視点=観客の視点となります。複数のカメラを使用したムービーも、あくまで複数の固定された視点が存在しているに過ぎない。

シュミレーションされた空間は、自分が空間内を自由に動き回る事が出来、その都度自分の視点から見た服やモデル、背景の空間がリアルタイムで構成されるものなので能動性が生まれる。

この様な手法がより進めば、自分の身体をスキャンしたアバターが、オンライン上に再現されたパリの店舗内を自由に歩き回り、気になったアイテムをアバターを介して試着出来るような買い物の仕方すらあり得るわけです。というか最近バレンシアガがコレクションをゲーム形式で発表した際に、その雛形は出来てましたね。


バレンシアガのゲームでは、まだ自分の進める道順や視点に制限があり、完全な現実空間のシミュレーションにはなっていません。何よりFPS(一人称視点)のゲームだった事が悔やまれます。コレクションを一定の筋道で順序立てて紹介するという意味はあったかもしれませんが。もし未来に仮想空間内を動き回る買い物体験があるとすれば、その時にはTPS(三人称視点) が採用され、常に自分の現在のコーディネートを確認できる状態になると思うからです。

バレンシアガは、ああした仮想空間に、世界中の人間がアクセスし、アバターが降り立つ未来を垣間見せてくれたわけです。


もしネット上の仮想空間に店舗が建ったら、既にある店舗で自分の購入した服のデータをアバターに着せて、別のブランドの店舗に行く、店員はその顧客の購入履歴を見る事が出来、顧客のデジタルクローゼットの中から服のデータを読み込んで、自分の店の商品と合わせたコーディネートをアバターを介してお勧めするなど、オンラインショッピングという体験自体が、現実空間における接客を拡張したものになる可能性もあります。


その際TPSで仮想空間が設計されれば、その空間上で、先に述べた様にカメラを自由に移動させる事ができます。自分を5m・10m・100m離れた場所から見る事も出来ます。あるいは周囲に自由にオブジェクトや人物を追加したり、場所に季節や時間帯など、アバターが立っている環境を変えたり。自分の買い物姿をウォッチする見えない観客が存在してたり。


TPSというのは、常にその空間内における自分を客観視させる性質を持ちます。本来であれば何かを見ている自分(一人称)は見えず、目に入るのは見てくる相手(二人称)とその背景ですが、こと服が好きな人は、見られる自分というものが、その空間内で如何に格好良く見えているか、という自分を外から眺める視点を持っています。


この視点が強い人は自然とTPOを意識しているタイプです。常に他者の視線を想定し、どう評価されるかが気になる。それが脳内でシミュレーションされると三人称視点のような像が浮かぶのでしょう。見られているという意識は、当然見られたいという欲望の裏返しなのであって、外見に気を遣っている人がその傾向を持つのは自然な事です。

なのでTPSを採用した方が、ファッションが好きな人との親和性が高い空間になるでしょう。ともすれば現実空間との差異を補って余るほど。


そのうち、仮想空間の中の自分のアバターと自分の身体を同期させて、アバターを痩せさせる為にゲームでレベルを上げる様に、現実空間で筋トレをするような意識のあり方が出てくるかもしれません。


仮想空間が実生活の場になる事は結構現実味を帯びて来ています。というか今、ZOOM会議やテレワークが当たり前になった職業もあり、人と会う空間がZOOMの画面上での方が多い人が居そうですね。

ZOOMの話でよく出るのは、画面上に映るのは自分の上半身のみなので、パンツは寝巻きのままで良いとか。ファッションは人から見られる視線によって成立している部分も大きいのでこういう事が起こりますが、現実空間にある自分の服装が、上半身と下半身が別のルールによって決定されているという状態はとても面白いです。ZOOM空間のルールが、現実空間のカメラに映る領域のみに覆い被さってくるという体験。現実空間は家なわけですから、本来なら全身がリラックスできるプライベートな空間に存在してるのに、ZOOMの画面に映し出される空間のみが会議室や会社という場所のルールによって支配される。


ここで自分の服装を決定しているのは、時間でも、場所でもなくカメラの画角です。こんな状態を一般人が体験する世界ってまあ無かったんじゃないでしょうか。


あー面白い。続きまた書きますね。