#2

2020/07/14 23:28

#1は、服の価値と、ファッションという価値を生む運動自体を分けたくて書きました。


その続きなので、今回はファッションは置いといて服の価値について書きます。

そもそも価値って人と物の間に生まれるもので、固定されたものではありません。しかし人間も所詮は獣なので、種として共通する感受性があり、他者とだいたい良し悪しの意見が一致する項目があります。僕らはそういった要素を「本質」的な価値と呼びます。


服においてそれは、形と色(質感)だと思います。


価値がある服というのは、まずこの2点が優れていると言えるものです。じゃあ、その良し悪しを判断できるようになるにはどうしたらいいんでしょうか。


これはもう西洋美術の中に通底している美意識を学ぶのが1番良いです。特に近代美術以降の、彫刻作品の良し悪しがわかると形に関しては自信を持ってこれがいい、あれが悪いと感じれるようになると思います。


西洋美術とひと口にいっても範囲が大きすぎるので、まずは昔学校で見させられて、何の興味もわかなかったミケランジェロのダビデ像を思い出してください。


ミケランジェロのダビデ像が公開されたのは1504年、ルネサンス期です。ルネサンスは古典の再生運動であり、近代の始まりに位置付けられる芸術運動です。

モデルは青年の頃のダビデ王。ミケランジェロのダビデ像は、他の彫刻家のダビデと比べで少し年齢が高く見えるのが特徴なのですが、それが基準とするにはちょうど良く、18歳〜20歳くらいの青年に見えるので、ファッションモデルとイメージを重ねやすいですね。


あのスタイルの人間が実際に目の前から歩いてきたらどう感じるでしょうか。その健全な肉体に思わず見惚れてしまうのではないでしょうか。



当然ですが服の中には身体があるので、服の良し悪しを見る際には身体の存在を思わずにはいられません。

身体の美醜とは、本能的なところで健康そうに見えるかというのが大きいです。滑らかに動き、軽快に駆け回る姿、大地に屹然と立ち存在感を醸し出す姿が想像できる身体というのに、人はどうしても憧れてしまうんじゃないでしょうか。

そういうことで言うと、ダビデ像はこの上なく理想的な身体です。ルネサンス自体が、古典の復興を大きなテーマにして、その中に自然科学や解剖学などの観点が加わり、人間の身体における自然な美しさを検証し直しています。ダビデ像はその結実です。


もちろん現代のファッションモデルと比較すると違いはありますが、ファッションモデルの方が洋服に合わせて最適化されているので、基準はダビデ像にした方がいいと思います。


ああいった彫刻作品の身体のプロポーションを、ひとつの基準として自分の感性にインプットしてください。その美しい身体が透けて見える服というのは、だいたい美しい形をしています。


それに、服から直接美意識を学び取ろうとすると、前に書いた通り服というのは様々な要素が集まっているので、判りにくいところがあります。その時代における魅力あるプロポーションや、デザイナーの理想とする形が上に乗っかっているので、コレクションブランドのほとんどの服は基本ではなく応用です。


なのでまずはそのまま身体のみにフォーカスして、その美醜がわかるようになると良いわけです。



ちなみに、近代美術以降の様々な彫刻作品を見ていき、現代美術までいくと表現が多様化し過ぎてまたよくわからなくなってしまうと思います。そんな時はクラシックバレエを見ましょう。

クラシックバレエのダンサーは、現代まで脈々と続く古典の美意識に基づいた身体を保っています。流行り廃りに惑わされることなく守られてきた文化ならではです。近代からの様々な作品を見て、もう一度クラシックバレエの世界で守られてきた身体に出会うと、結構感動します。


バレエの中で見られる、美しい身体が重力を忘れさせるようなポーズで静止する瞬間は、まさしく彫刻が理想としている形です。

日本にはあそこまで人間の身体をそのまま曝け出すような舞踏表現が無いのも、身体に対する美的感覚が中々育たない理由かもしれません。




嘘だろこの文章量で形の初歩までしか書けてない。

今日はここまで、また追記します。